憲法以前へ

敗戦直前に策定された、国民すべてを戦闘に動員する「本土決戦戦略」は(実際、沖縄戦で実行された)、その大前提として「国家は国民に『国家のために全員死ね』と命令する權利をもつ」ということが観念されていた。

だが戦後憲法は、国家が始原的に危機に直面すればそう命令する可能性を持つ存在であることを自覚した上で、このような權利を否定し、国家が戦争へ暴走することを防ぐ仕組みを何重にも組み立てた。

国家が国民に死ねという權利を持たないことを、国家の主権が国民にあることを(国民主権)から導いている。国民がすすんで自死するなどとはありえないからだ。だが「国家のために死ぬべきだ」と考える者たちが国会の多数を占め、従って政府を占領したら?

現憲法は、たとえ形式上、民主主義的な手続き(選挙)の結果そういう事態が生まれても、占領者たちが国民を構成する個人の自由と權利を奪うことはできないと宣言している。立憲主義とはこのことをさす。

にもかかわらず、彼らがこの自由と権利を奪おうとすれば?いや、そもそも「国家のために死すべきだ」と考える占領者たちは、不可避的に、最終的にはそうせざるをえないのだ。

これに抵抗し、「憲法擁護」を大義として自由と權利を守ろうとすれば、占領者たちからただちに「反政府分子」「過激派」「テロリスト」などのレッテルをはられ、弾圧されるだろう。ここでは、占領者たちの「国家の大義」と「憲法の大義」が衝突しているのだ。

この限りで抵抗する者は、占領者たちによって「国民」としての属性を奪われる。そして「やつらは国民じゃなく、テロリストであり、何をしても許される」とみなされる。つまり抵抗する者は法の外部へと追いやられる。法の外部とは、国家が暴力と死として赤裸々に現前するところである。

だが、その外部こそ、抵抗の根拠地となるだろう。

なぜならこの地でこそ、暴力と死が現前するところこそ、抵抗する者は、国家以前、つまり個人が国民としての属性をまとう前の、いわば「剥き出しの生」として、国家に憲法を押し付ける権力を持つ者(憲法制定権力者)の集合体の一員に戻り、法外の法の下(書かれざる憲法としての正義)、無限の力(希望)をもつことになるからだ。

世界の狭さ

世界は広いのではなく、むしろ狭いのであり、地球上のどこかの出来事(事件)は、それにかかわるひとびとの情念がメディアとなり、バタフライ効果的に世界に伝播していく。伝播していくその情念は、言葉(あるいはイデオロギー)を超えた正義の観念を含んだものだ

人権と生存

現在私たちが世界で目撃しているのは、国家をはじめとする政治権力によって「人権」が無視され、つぎつぎと破壊されている状況である。「人権」の破壊とは、つまるところ政治権力が人びとに対して生殺与奪の力(剥き出しの絶対暴力)を持つものとして姿を現し、彼らにとって必要と判断した場合には、実際に容赦なく人びとを殺戮することに他ならない。あたかも世界が、殺戮する者と、殺戮される者に二分されているかのように。

このような状況で、私たちが今その前に立たされている問いとは、「人権を守れと叫び、旗を立ててたたかうことで果たして権力を打ち倒すことが可能なのか?」ということである。

 

「アベノカクメイ」

既に多くの人が指摘しているように、安倍自公政権の「特定秘密保護法」強行採決や、「集団的自衛権」閣議決定は、憲法を蹂躙し、骨抜きにするクーデターである。私たちはクーデターを仕掛けられたのであり、そうである以上、彼らを憲法違反の違法な政権として断罪し、打倒しなければならない。

さらに、戦争準備を国民の目から隠蔽する秘密保護法の制定の後に自民がもくろんでいる憲法改正(すでに『自民党憲法改正草案』として完成している)は、「はじめに人民ありきの国民主権」を基礎とする現行憲法を、「はじめに国家ありきの国家主権」に置き換えようとするものだ。「改正案」と名付けてはいるものの、改正の限界を超えたものであり、そもそも現行憲法の尊重擁護義務を負う国会議員が発議提案できないものだ。

現行憲法と一体性を欠いた、まったく別の原理にもとづく「新憲法」を現行憲法の改正手続きでおこなおうとするのは、背理として許されず、もはや「改正」ではなく「新憲法の制定」と言うべきである。そして、憲法に基づかない新憲法の制定は、現行秩序を破壊する「ファシズム的革命」(いわばアベノカクメイ)ととらえるしかない。

彼らがこの「革命」を、あくまで現行憲法の改正手続きで行うとすれば、それはクーデターの完成である。この「クーデター」に対しては、もはや国会が国民の意思を体現しえない状況下での企てである以上、憲法制定権者である私たちの、デモクラシーを防衛するための「反革命」運動を対置するしかない。

もちろん「アベノカクメイ」がそのまま成立してしまうわけではない。自民党や公明党内部から、そしてほとんど自民党予備軍と化している野党内部からも、この「ファシズム的革命」に抵抗し、反撃するひとたちが出てくるだろう。またこのカクメイを推進しようとしている安倍一派自体が分裂するかも知れない。何が起るか、私たちは予測できない。

だがどういう事態が生まれようと、「アベノカクメイ」と、それに抵抗する人びとの「反革命」のたたかいこそ未来を決める決定的な要因であることは疑いがない。そしてこのたたかいは既に始まっているのだ。

 

二重の幻影

近代は、「国家の前に、その地で生活する人間の集合体が存在する」というところから出発している。国民主権と近代憲法はその宣言に他ならない。そこでは「個人を守るために国家がある」という論理が立てられている。

だが今、安倍や「日本会議」の極右勢力は、そ れを「国家あってこそ個人がある」に、つまり時計の針を近代以前に巻き戻そうとしている。だが、それはおよそ実現不可能な企てであり、幻影を求めようとする空しい試みに過ぎない。幻影とは、戦前の「日本帝国」のことだ。

明治からはじまる「日本帝国」は、アジアの人びとの反帝国主義のたたかいと、連合軍によって完全に敗北、破産した(連合軍に対する無条件降伏)。その敗北によって、近代の遺産である国民主権、デモクラシー、憲法が日本にもたらされ、それが現代にいたる戦後日本の土台となった。したがって「日本帝国」の再興を願望することは、この戦後を丸ごと清算しようとする試みとならざるをえない。

だが、戦後日本を形成した近代の遺産は、たとえ形式的なレベルにとどまっているとしてもわが国の人びとの間で定着しているのみならず、日本を含むファシズム国家とのたたかいを通じて戦後世界を主導するユニバーサルな価値として既に世界で確立されたものだ。だから、戦後(安倍たちの言葉では戦後レジーム)を清算するということは、たんに日本の人びとだけでなく、全世界を敵にまわすことに他ならない。そんなことはおよそ不可能であり、だからこそ実現不可能な幻影なのだ。

だがそれ以前に、安倍たちの「日本帝国」が幻影であるのは、この帝国が自立などしておらず、アメリカへの軍事的、政治的、経済的従属を前提にしているからだ。とても帝国とは言えない代物だ。だから「取り戻すべき日本帝国」は二重の幻影であり、だとするともはやカルト的な妄想と言うべきだろう。そして言うまでもなく妄想は、必ずどこかの時点で、霧散することを運命づけられている。

 

日本ナショナリズム

「公共心がない→国家意識が希薄→原因は?→東京裁判で国家を否定され→アメリカに洗脳された→だから日本の伝統と国家を回復しなければならない」 この国家主義者の回路できれいに脱落しているのは、日本が「大東亜戦争」で、アジアの人びとの抵抗運動と連合軍に敗北したことであり、戦争がアジアの植民地圏の獲得をめぐって欧米と争った侵略戦争であり、かつソ連を対象にした独伊との反共同盟戦争だったことである。

この事実に直面することを避けるためには、「大東亜戦争はアジア解放戦争であり、侵略戦争ではなかった」と歴史を修正するしかない。

「日本は悪くなかった。そう思わされたに過ぎない」と、原因を自分たちではなく、他者に求める心理は、日本が世界第二位の経済大国の地位からずり落ち、 80年代に入って一定の分野で中国や韓国などアジア諸国に抜かれ始めたことが背景になっている。バブル崩壊後の劣等感が広がり、その補償としてナショナリズムが浮上しはじめた。

「日本人としての誇りを取り戻したい」という欲望が、現在のナショナリズムを支え、歴史を修正する誘惑を呼込んでいる。だが本当の誇りは、アジア侵略の歴史に正面から 向き合うことでしか手に入れることができない。

修正した偽の歴史に依存するのは、歴史からの幼児的な逃亡であり、逃亡を続ける限り、必ず「幻想上の敵」に対する排外主義に転落していかざるをえない。すでにこの間それは、中国と韓国を対象にしている。奇妙なことに、本来は、戦勝国かつ占領国であり、日本を「洗脳」したはずアメリカが、ナショナリズムの「敵」認定から除外されていることが、修正された歴史の偽善性を如実に示している。現在の日本が、政治的、軍事的、さらには経済的にアメリカに従属している事実を考えれば、これはたんなる偽善にとどまらない。

だが、ここで問題にしたいのは次のことだ。

ナショナリズムは、下から、つまり人びとのあいだから形成されていくものだが、国家権力を構成する側も意図的に煽り、誘導しようとする。日本の場合、戦後、戦前の権力層を完全に駆遂できず、彼らが再び権力中枢に潜り込んだため、権力側の本音がナショナリズムに紛れ込む。彼らの本音は「日本の国体は憲法に拘束されない。個人の前に国家がある」という、現行憲法と真っ向から対立する明治憲法の国家観であり、国家主義である。

この権力層の本音は、現在までしぶとく生き残っていて、社会的な危機に直面すると、口では「法治主義」を唱えながら、平気で法と憲法を破ってくる。 彼らの頭の中では「個人を超越した国家を守ること」が第一に優先されるべきであり、「国家の前に個人がある」という立憲主義はたんなるタテマエに過ぎない。

だから、ナショナリズムという場合、私たちはこの二つの契機を見る必要がある。つまり、経済大国からの転落というルサンチマンをドライブにした下からのナショナリズムが、国家主義者のウルトラナショナリズムと、「歴史修正主義」と「排外主義」を接続項として結びつこうとしている点である。

だとすると私たちの課題は、この接続項を切断し、下からのナショナリズムが排外主義に転落する回路とは別の回路を準備することである。

もう一つは、彼らがアメリカを回避していることをウルトラナショナリズムのまさに「弱い環」としてとらえ、アメリカからの政治的、軍事的独立を課題として設定することだ。「日本人としての誇りを取り戻したい」という人びとの欲望をもっとも吸収できるのは、アメリカからの独立になるだろう。そして、そのたたかいの最先端にあるのが、今現在、辺野古新基地をめぐって安倍内閣と鋭く対峙している沖縄のひとびとのたたかいである。

 

主権、人民、国民

理屈からいえば「主権は人民(People)に存する」と宣言する現憲法を制定した者は、憲法の外にあり、憲法を超越する存在と言わなければならないが、 それは人民そのものである。たとえ憲法制定後は「改正権」という限定されたかたちで自らの意思を表現するとしても、人民はその存在自体、憲法に拘束されない。

人民(People)が、憲法の外にあり、本質的に憲法に拘束されない存在だということは、奇妙に聞こえるだろうが、今あるような形式の憲法を制定しない 選択もできるということを意味しているし、憲法と近代国家が一体のものであるとすれば、国家以前の存在だということになる。

主権は自らにあると宣言した憲法を制定し、憲法の目的を、みずからの生存を人権として保障するためのものと設定することで、人民は「国民」というかたちで 自らを編成し、拘束する。だが、そのことで得るものと失うものがあると同時に、人民と国民のあいだにある緊張関係まで消滅するわけではない。

国家と国民という制度に、いまある民主主義と人権も依拠している。だから国家が危機に陥り、剥き出しの支配と暴力が出現してくると、私たちがただ「国民」の枠内にとどまっている限り、民主主義も人権も守り通すことは困難になるだろう。

 

 

国家の本質

ナチスや、かってのソ連の強制収容所の記録をたどっていくと、それが特殊で、例外的な出来事ではなく、むしろ人間の生の管理と暴力支配に基礎を置く近代国家のあり方が、危機とともに姿を現したもののように見えてくる。例外ではなく、それが人間に対する近代国家の普遍的なありかたとして。

 

民主主義

当り前のことだが、民主主義は、政治的な制度(議会代表制)であると同時に、政治思想(国民主権)でもある。だから、制度だけを強調するのはまちがっている。

これも当り前だが、歴史的に、民主主義は、棚ぼた式に上から降って湧いたものではなく、多くの人びとの血で勝ち取られてきたものだから、その半透明な下半身は、政治権力をめぐる人びとの暴力的なたたかいで構成されている。

主権を握った民主主義政治勢力(国民)は、憲法を制定し、権力の行使方法や憲法の改正手順を決めると、みずからの剥き出しの政治暴力を自制して、いったんは背景に退く。だがそれは一時的に退いているだけで、制定した憲法の根本的な部分を破壊しようとする勢力が現れれば、剥き出しの暴力を発動する。

制度としての民主主義は、民意を反映せず、堕落し、腐敗する可能性をいつでも持っているし、その制定者である国民を合法性の奴隷(選挙が唯一の方法と洗脳)にしてしまう装置としても働く。

だから民主主義を、ただ政治的暴力を避けるための装置と考えるのは間違っている。民主主義は、その誕生から現在にいたるまで、権力と人びとの政治的たたかいの所産であり、いつでも安定的局面から、破壊と再建をめぐる暴力的なたたかいの局面に転換しうる。そして今私たちは、長い安定期のあと、後者の局面に入りつつある。

政治的暴力は、避けられればそれに超したことはないし、それが発動する局面を避けるため、最後まで努力しなければならない。しかし、だからといって、悪政 に対する(憲法制定権力者である)国民の最後の権利である「抵抗権」まで放棄するのは間違っている。とりわけ憲法が破壊される局面では。

この暴力をめぐる問題は、もし現在の安倍政権によって、特定秘密保護法や共謀罪などであらかじめ反政府のたたかいが封じ込まれた後に、憲法が根本的に改変されてしまった場合、私たちがどうたたかうべきかという問いを立ててみれば明瞭になる。武器としての憲法も消失した場合どうすべきかと。